幕末の四賢侯(ばくまつの しけんこう)は、幕末期に活躍した次の4人の大名をいう。

幕末の四賢侯(ばくまつの しけんこう)は、幕末期に活躍した次の4人の大名をいう。

福井藩第14代藩主
 松平慶永(春嶽)
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宇和島藩第8代藩主
 伊達宗城
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土佐藩第14代藩主
 山内豊信(容堂)
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薩摩藩第11代藩主
 島津斉彬
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島津斉彬の没後は島津久光(薩摩藩12代藩主・島津忠義の父)を加える場合もある。

なお「幕末の四賢侯」とは今日の歴史教科書などで使われている表現で、実際に本人たちが活躍していた時代から昭和の戦前期頃までは、これを単に四賢侯(しけんこう)と呼んでいた。



藩政の改革に着手したばかりでなく、積極的に幕府の政治に参画した。阿部正弘が筆頭老中の際には、幕閣のみによる政治運営ではなく各藩藩主も幕政に参与するよう幕政の改革を求めた。阿部もそれに応えるかたちを採ったが、安政4年(1857年)に没してしまった。

代わって井伊直弼が大老に就くと様相が一変する。病弱で嗣子のない13代将軍・徳川家定に代わって誰を次期将軍に擁立するかで四賢侯と井伊とで対立した。四賢侯は水戸藩主・徳川斉昭の子、御三卿・一橋慶喜(後の15代将軍)を立て、井伊は紀伊藩主・徳川慶福を推した。結局、井伊が強権を発動し、政敵を排除(安政の大獄)。慶福が14代将軍・徳川家茂となることに決定した。斉彬は大獄の始まる直前、安政5年(1858年)7月に没した。他3名は同年7月以降、隠居を命じられ更に謹慎の身となり藩邸に押し込められた。

万延元年(1860年)井伊直弼が桜田門外の変で倒れて以後、文久3年(1863年)にかけ随時、謹慎が解かれた。自由の身となった彼らは隠居の身ながら幕政・藩政に影響を与えた。

中でも春嶽は文久2年(1862年)7月、幕府の新たな要職となった政事総裁職に就任した。文久3年末には春嶽・宗城・容堂・久光が参預に任命され、徳川慶喜・松平容保らとともに国政を議する参預会議が開催されたが、久光を嫌った慶喜の非協力的態度により、短期間で崩壊した。さらに慶喜が15代将軍となった後の慶応3年(1867年)5月には再び4人が集まって四侯会議が催される。幕府の権威を削減し、雄藩連合による合議をもってこれに代えようとした薩摩藩の画策であったが、慶喜の巧みな懐柔により無力化した。その後、容堂は慶喜に対し大政奉還を建白し、春嶽もまたこれに賛同している。

彼らは藩主であり、幕政に関与し続けようとしたため倒幕という考え方は持っていなかった。彼らの主張はあくまでも幕府と藩主による連合政治であり、ひいては公武合体であった。明治維新以後、各人とも政府要職に就いた。しかし倒幕を推進した志士たちを中心とする政治とは考え方が違ったため、明治時代初頭には各人とも次第に公職を辞していった。

「萩市史・第一巻」では「幕末の四賢侯」は松平慶永と親交のあった人物に限定されているのではないかと推測されている
ウィキペデアより
by momotaro-sakura | 2010-05-17 06:43