ニュージーランド地震

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右脚切断し生還の19歳「床ごと落下」「語学生かす仕事を」
2011.2.24 14:43


病室で、救出されるまでの状況について話す富山外国語専門学校の奥田建人さん=24日朝、ニュージーランド・クライストチャーチ(共同)

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崩壊したクライストチャーチ大聖堂
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崩壊したキングズ・エデュケーション
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 ニュージーランド南島のクライストチャーチ市で22日に起きた大地震の死者は少なくとも75人に上り、約300人が行方不明となっている。富山市は23日、現地の語学学校「キングズ・エデュケーション」で語学研修中だった富山外国語専門学校(富山市)の生徒のうち、倒壊した建物のがれきの中に閉じこめられていた男子生徒(19)が救出され、安否不明だった富山市大泉、田中智恵さん(19)の無事が確認されたと発表した。日本人23人の安否が依然分かっていない。

ビル倒壊現場から複数の遺体2月24日 12時21分
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22日にニュージーランド南部で発生した地震で、地元の警察は、研修中の日本人の生徒らが取り残されている可能性があるビルの倒壊現場から24日になって複数の遺体が見つかったと発表しました。

22日にニュージーランド南部で発生した地震では、これまでに76人の死亡が確認され、238人の行方が分からなくなっています。地元のクライストチャーチの警察は、24日、被害状況などについて記者会見し、研修中の日本人が取り残されている可能性がある倒壊したビルの現場から複数の遺体が見つかったと発表しましたが、遺体の人数や国籍など詳しいことはまだ明らかにされていません。また、このビルの中には今も最大で120人の人が閉じ込められている可能性があるとしています。このビルの倒壊現場では、日本の国際緊急援助隊が現地時間の午前11時(日本時間の午前7時)から救助活動を行っているほか、被災地にはオーストラリアやシンガポールなどの救助隊も入って活動を始めています。地震発生からすでに50時間以上がたちましたが、被災地では、地震発生のあともマグニチュード4を超える規模の余震が30回以上起き、倒壊が懸念される建物もあり、厳しい救助活動が続いています。

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NZ語学学校が名簿発表 日本人不明者、増える恐れ2011年2月24日12時23分

. 被災した日本人が多く通っていたニュージーランド・クライストチャーチの語学学校「キングスエデュケーション」は24日、同校に所属している学生や職員の名簿をホームページ(HP)上で発表した。正午現在で日本人とみられる名前は45人分あった。このうち23人の行方がわからず、別の6人と連絡がつかない、としている。計29人の安否が確認されていないことになる。

 行方が分からないのは23人で、キングス校が入っていた倒壊したビル内にいるとみられる。富山市立富山外国語専門学校の10人の学生や、京都の留学支援会社「マドレ・インターナショナル海外留学」があっせんした2人などが含まれている。

 ビル内にいたかどうかも分からず、連絡がつかない人が6人。元北国新聞記者の北川泰大さん(39)=金沢市=とみられる名前も含まれている。

 外務省は行方不明者を26人としており、キングス校のリスト上は少なくとも、これ以外に3人の不明者がいる可能性があることになる。同省は当初、不明者を27人としていたが、個人留学中だった19歳の女性の安全が確認された。

 一方、キングス校のHPによると、救出されたのは11人で、いずれも富山外国語専門学校の生徒たち。11人のうち、クライストチャーチの病院で手当てを受けているのが8人、ホームステイ先にいるのが2人、オークランドの病院に搬送されたのが1人。

 キングス校は直接確認していないが、家族などを通じて「安全」だとの情報を得ている人が5人おり、すでに無事が確認されている富山外国語専門学校の引率教員もここに含まれている。

 名簿には、タイやインドネシア、韓国などからの留学生とみられる名前もあった。キングス校は、地震で詳細な記録は失われてしまったとしており、名簿はニュージーランド教育省からの情報と目撃証言をもとに作成したと説明している。同校は情報の提供を求めている。
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クライストチャーチという市名は、1848年に設立された移民団組織カンタベリー協会を率いたアイルランド出身の政治家ジョン・ロバート・ゴドリーの出身校であるオックスフォード大学クライストチャーチ・カレッジに由来する。1848年3月27日に開かれたカンタベリー協会初会合にて承認され市名として採用された。

市名が示す通り市の中心部には19世紀に建てられたネオゴシック建築のキリスト教聖公会(イングランド国教会)の聖堂「クライストチャーチ大聖堂」が存在する。

緑溢れる街並みから“イングランド以外で最もイングランドらしい街”と称される。市内には740を超える公園が設置され「ガーデンシティ(庭の街)」と呼ばれる。

歴史 [編集]ニュージーランドに生息した巨大な鳥モアを追いかけ、1250年ごろ北島のイーストコーストから先住民族が移って来たとの見方が有力である。モアを追いかけ、その後定住生活を始めた民族の考古学的な証拠が1876年にクライストチャーチ市内の洞窟から発見されている。ニュージーランドの原住民族マオリ族の言い伝えによれば、モアを追いかけ、Waitahaという部族がこの地に移り住んだのが16世紀といわれる。その後いくつもの部族が入れ代わり、Ngati Mamoeという部族と、Ngai Tahuという部族が定住し、ヨーロッパ人の入植が始まる1830年代までこの地に入植していたといわれる。

1839年、ニュージーランドカンパニーがロンドンに設立され、ヨーロッパからニュージーランドへの移民流入の歴史が始まる。1840年代にオランダ、フランスなどヨーロッパの国々から開拓者が入植する。1840年にワイタンギ条約が締結され、事実上イギリス直轄の植民地となる。1850年よりイギリス人による入植が始まる。1856年7月31日に英国国王の勅許状によりクライストチャーチはニュージーランドで最も古い市として誕生する。初期入植者の多くが、英国オックスフォード大学・クライストチャーチカレッジの出身者であったことからクライストチャーチと命名される。イングランド人建築家のベンジャミン・マウントフォート設計によるネオ・ゴシック建築の建物が市内中心部に建造される。イングランド人による入植の歴史から、イングランドの面影を多く残す街として現在に引き継がれる。1853年から1876年までカンタベリー州の州都であった(現在、州制度は廃止され地方議会制へ移行)。

20世紀初頭にイギリスの探検家ロバート・スコットやアイルランドの探検家アーネスト・シャクルトンがリトルトン港より南極探検へ向かう拠点としていた。市はスコットの栄誉を称えクライストチャーチ・シティ・センターにスコット像が飾られている。リトルトン港は現在も南極基地へ物資を輸送する拠点港として業務を担当している。クライストチャーチ国際空港は、ニュージーランド空軍、アメリカ空軍の南極観測拠点空港として業務を担当している。同空港に隣接する国際南極センターは、南極調査資料の展示体感施設を兼ね備えた観光施設としてのほか、ニュージーランド、アメリカ、イタリアの南極観測隊活動拠点地として業務を担当している。ハグレイ公園に隣接するクライストチャーチ病院は南極基地からの急病患者を搬送する拠点医療機関として業務を担当している。カンタベリー大学は国際南極大学(IAI)協力校として南極学プログラムを担当している。

by momotaro-sakura | 2011-02-24 15:16 | ブログ