元暦2年の大地震




鴨長明方丈記 かものちょうめいほうじょうき
西尾市岩瀬文庫コレクション


(152-174) 1冊

 「行く川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず・・・」という有名なフレーズで始まるこの作品は、清少納言『枕草子』、吉田兼好『徒然草』とならんで日本三大随筆とも呼ばれています。本書は明暦4年(1658)に刊行された版本ですが、後書部分に建暦2年(1212)に記したことが書かれており、当初記した時期がわかります。前半部分に彼が生きていたころ体験した災害についての記述があり、その一つが元暦2年(1185)に京都でおこった大地震です。時は平安時代末、史料の少ない時代ですので、その記録は貴重なものです。
 こうした多くの災害、平氏の福原遷都の失敗などを経て、作者鴨長明は文頭のような世の無常観を解いていったのでしょうか。

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 左ページは元暦京都地震で、人馬が七転八倒する様子。大地震の恐怖を表現した挿絵です。

元暦の大地震 
「又元暦二年の頃、大地震ふること侍りき。その様世の常ならず。山くずれて川を埋(うづ)み、海かたぶきて陸(くが)をひたせり。土さけて水湧きあがり、いわを割れて谷にまろび入り、渚こぐ船は浪にたゞよひ、道いく駒は足の立處をまどはせり。況んや都の邉には在々所々堂舎塔廟、一として全からず。或(あるひ)は崩れ、或はたおれぬる間、塵(ちり)灰立入りて、盛んなる煙のごとし。地の震ひ、家の破るる音、いかづち(雷)にこと(異)ならず。家の中に居れば、忽ちに打ちひしげなむとす。走り出づれば、又地割れさく。羽なければ空へもあがるべからず、龍ならねば雲にのぼらむこと難し。おそれの中に恐るべかりけるは、只地震なりけりとぞ覚え侍りし。その中にある武士(もののふ)のひとり子の、六つ七つばかりに侍りしが、ついひち(築地)のおほひの下に小家を作りて、はかなげなある跡なしごとをしてあそび侍りしが俄に崩れうめられて、あとかたなくひら(平)にうちひさがれて、二つの目など、一寸ばかりうち出されたるを、父母かゝへて、聲も惜しまず悲しみあひて侍りしこそ、あはれにかなしく見侍りしか。子のかなしみには、猛き武士も恥を忘れけりと覚えて、「いとほしく。理かな」とぞ見侍りし。かくおびただしくふる事は、しばしにてやみにしかども、その餘波しばしば絶えず。よのつね(世の常)に驚くほどの地震、二三十度ふらぬ日はなし。十日二十日過ぎにしかば、やうやうまどお(間遠)になりて、或は四五度、二三度、もしは一日まぜ、二三日に一度など、大方その餘波三月ばかりや侍りけむ。四大種の中に水火風は常に害をなせど、大地に至りては殊なる変をなさず。「昔、齊衡(せいかう)の頃かとよ。大地震ふりて、東大寺の仏のみぐし(御頭)落ちなどして、いみじき事ども侍りけれど、猶この度にはしかず」とぞ。すなはち人みなあぢきなきことを述べて、聊か(いささか)こころのにごりもうすらぐかとみし程に、月日かさなり、年越しかば、後は、言の葉にかけていひ出づる人だになし。」
(現代語訳) 「また、元暦二年のころ、大地震があったことがある。そのさまは尋常ではなかった。山は崩れその土が川をうずめ、海が傾いて陸地に浸水した。大地は裂けて水が湧き出し、大きな岩が割れて谷に転がり落ちた。波打ち際を漕ぐ船は波の上に漂い、道行く馬は足の踏み場に惑っている。いわんや、都のあたりでは至る所、お寺のお堂や塔も一つとして無事なものはない。あるものは崩れ、あるものは倒れている。塵や灰が立ち上がって、もうもうとした煙のようである。大地が揺れ動き家屋が倒れる音は雷の音とそっくりだ。家の中にいるとあっという間に押しつぶされかねない。かといって、外に走り出せば大地がわれ裂ける。羽がないので空を飛ぶこともできない。竜であったなら雲にでも乗るだろうに。これまでの恐ろしかった経験のなかでもとりわけ恐ろしいのはやはり地震だと思った。
 そんな中、ある武士のひとりの子で、六・七歳になっているが、築地の覆いの下に小屋を作って、はかなげなることをして遊んでいたところ、急に崩れ埋まってしまい、跡形もなく押しつぶされて、目だけがちょっとばかり出ているのを父母が抱きかかえて大声で悲しみあっている様子が誠に悲しくみえる。子どもの悲しみには勇猛な武士も恥を忘れるとみえて「気の毒ではあるが当然のことだ」と思われる。
 このようにひどく揺れることは暫くして止んだけれどもその余波は絶えなかった。(地震の余震のことと思われる)びっくりするような地震が二・三十と回起こらない日はなかった。十日二十日過ぎてようやく間隔があいてきて、ある日は四・五度、二・三度あるいは一日おき二・三日に一度など大方その名残は三ヶ月ばかり続いた。
 四大種(地・水・火・風)のなかで、水火風は常に害を及ぼすが、地に至っては特別な変化はない。「昔、斉衡のころ(斉衡二年の地震)。大地震が起きて東大寺の大佛の頭が落ちたなどたいそうなことがおきたけれども、この度の地震ほどではない」という。その直後には誰も彼もがこの世の無常とこの世の生活の無意味さを語り、いささかの欲望や邪念の心の濁りも薄らいだように思われたが、月日が重なり、何年か過ぎた後はそんなことを言葉にする人もいなくなった。」
 









元暦の大地震1
 また、同じころとかよ、おびただしく大地震ふること侍りき。そのさま、よのつねならず。山はくづれて、河を埋み、海は傾きて、陸地をひたせり。土裂けて、水湧き出で巌割れて、谷にまろび入る。なぎさ漕ぐ舟は波にただよひ、道行く馬は足の立ちどをまどはす。都のほとりには、在在所所、堂舎塔廟、一つとして全からず。
 また、同じころであったな、ものすごい大地震がありました。その様子、並み大抵ではない。山はくずれて、河を埋め、海は傾いて陸地を浸した。大地は裂けて、水は湧きだし大きな岩は割れて、谷に転がり込んだ。波打ち際を漕いでいる舟は波に漂い、道行く馬は足の踏み場にまごついている。都のそばには、いたるところ、堂舎や塔廟、一つとして完全なものはない。






1185年出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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世紀: 11世紀 - 12世紀 - 13世紀
10年紀: 1160年代 1170年代 1180年代 1190年代 1200年代
年: 1182年 1183年 1184年 1185年 1186年 1187年 1188年

1185年(1185 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、平年。

目次 [非表示]
1 他の紀年法
2 できごと
3 誕生
4 死去


他の紀年法 [編集] この節は、ウィキプロジェクト 紀年法のガイドラインに基づいて記述されています。この節に大きな変更を加える場合には、あらかじめ上記プロジェクトのノートで提案し、合意を形成してください。
凡例[表示]分類にある「日本」「中国」「中国周辺」「朝鮮」「ベトナム」は地域概念であり、特定の国家をさすものではなく、またその外延は便宜的に定めたものである。特に「*」の付された王朝の分類は仮配置であり、現在も「ガイドライン」のノートで対応を検討中である。「中国周辺」は、「広義の北アジア、中央アジア、及びこれに隣接する中国の一部地域(ほぼ中央ユーラシアに相当)」を指す。一段右寄せの箇条に掲げた元号は、その上段の元号を建てた王朝に対抗する私年号である。仏滅紀元及びユダヤ暦は、現在のところ元年と対応する西暦年から逆算した数を表示しており、旧暦等の暦日の記述とともに確実な出典を確認していないので利用には注意されたい。皇紀は日本で1873年の太陽暦採用と同時に施行された。檀紀は大韓民国で1948年から1961年まで公式に使用された。主体暦は朝鮮民主主義人民共和国で1997年から公式に使用されている。仏滅紀元は紀元前543年を元年とするタイ仏暦を基準にしている。スリランカなどでは紀元前544年を元年としているので1を加算されたい。

干支 : 乙巳
日本
平家方 : 寿永4年(-3月24日)
源氏方 : 元暦2年、文治元年8月14日 -
皇紀1845年
中国
南宋 : 淳熙12年
金 : 大定25年
中国周辺
西遼 : 天禧8年?
西夏* : 乾祐16年
大理国 : 元亨元年
朝鮮
高麗 : 明宗15年
檀紀 : 3518年
ベトナム
李朝 : 貞符10年
仏滅紀元 : 1727年 - 1728年
イスラム暦 : 580年 - 581年
ユダヤ暦 : 4945年 - 4946年



できごと [編集]
平氏軍が屋島の戦いに敗れ、海路西へ逃れる。
4月25日(元暦2年3月24日) - 壇ノ浦の戦いに平氏一門が滅亡、安徳天皇が入水。
源義経の勝報が鎌倉の頼朝に届く。
無断任官の東国武士24人頼朝により処罰される。
源頼朝の命により土佐坊昌俊義経を襲撃するも失敗、後白河法皇より源義経頼朝追討の院宣を賜る。源頼朝大群を発する。
源義経追討の院宣出る。源義経大物浦より船出し消息を絶つ。
9月8日(寿永2年8月20日) - 第82代後鳥羽天皇が即位(-1198年)
源広綱、駿河守に就く。
源頼朝、守護・地頭を設置。
島津忠久、島津荘の下司識に就く。
九州に鎮西奉行が設置される。


壇ノ浦の戦い(だんのうらのたたかい)は、平安時代の末期の元暦2年/寿永4年3月24日(1185年4月25日)に長門国赤間関壇ノ浦(現在の山口県下関市)で行われた戦闘。栄華を誇った平家が滅亡に至った治承・寿永の乱の最後の戦いである



誕生 [編集]4月23日 - アフォンソ2世、第3代ポルトガル王 (+ 1223年)
10月15日 (文治元年9月20日) - 九条良輔、鎌倉時代の公卿 (+ 1218年)
大炊御門麗子、土御門天皇の中宮 (+ 1243年)
グリエルモ3世、シチリア王 (+ 1198年)
鷹司兼基、鎌倉時代の公卿 (+ 没年未詳)
伊達義広、鎌倉時代の武将 (+ 1251年/1256年)
死去 [編集]2月12日 (元暦2年1月11日) - 藤原隆季、平安時代の公卿 (* 1127年)
3月16日 - ボードゥアン4世、エルサレム国王 (* 1161年)
3月22日 (元暦2年2月19日) - 鎌田光政、平安時代の武将 (* 生年未詳)
3月22日 (元暦2年2月19日) - 佐藤継信、平安時代の武将 (* 1158年?)
4月25日(元暦2年3月24日) - 平経盛、平安時代の武将(* 1125年)
4月25日(元暦2年3月24日) - 平教盛、平安時代の武将(* 1128年)
4月25日(元暦2年3月24日) - 平時子、平清盛の妻・安徳天皇の祖母(* 1126年)
4月25日(元暦2年3月24日) - 平知盛、平安時代の武将・平清盛の子(* 1152年)
4月25日(元暦2年3月24日) - 平教経、平安時代の武将(* 1160年)
4月25日(元暦2年3月24日) - 平資盛、平安時代の武将(* 1161年)
4月25日(元暦2年3月24日) - 平有盛、平安時代の武将(* 1164年)
4月25日(元暦2年3月24日) - 平行盛、平安時代の武将(生年不詳)
4月25日(元暦2年3月24日) - 安徳天皇、第81代天皇(* 1178年)
4月25日(元暦2年3月24日) - 服部家長、平安時代の武将(* 生年未詳)
6月6日 (元暦2年5月7日) - 平能宗、平安時代の武将 (* 1178年?)
6月16日 - リクサ・シロンスカ、ポーランドの王女 (* 1140年?)
7月19日(元暦2年6月21日)- 平宗盛、平清盛の三男(*1147年)
9月12日 - 東ローマ帝国コムネノス王朝最後の皇帝 (* 1123年)
11月19日(文治元年10月26日)- 土佐坊昌俊、平安時代の武将、僧侶(*生年未詳)
12月5日 (文治元年11月12日) - 河越重房、平安時代の武将 (* 1169年?)
12月5日 (文治元年11月12日) - 河越重頼、平安時代の武将 (* 生年未詳)
12月6日 - アフォンソ1世、ブルゴーニュ王朝の初代ポルトガル王 (* 1109年)
秋山光朝、平安時代の武将 (* 生年未詳)
イブン・トファイル、グラナダ出身のイスラム哲学者 (* 1105年)
完顔允恭、金の皇族 (* 1146年)
菊池隆直、平安時代の武将 (* 生年未詳)
バースカラ2世、インドの数学者、天文学者 (* 1114年)
藤原忠清、平安時代の武将 (* 生年未詳)
藤原景経、平安時代の武将 (* 生年未詳)
by momotaro-sakura | 2011-03-17 14:43