2011年 08月 16日
鹿島神宮part1
春日大社は、もともと藤原鎌足の氏神であった鹿島神宮の祭神を、後の藤原氏が都
近くに歓請したのが始まりである。だから祭神は同じ「タケミカズチノ大神」である。
その春日大社に源を発する【翁猿楽】(古名 呪師走り)がルーツと言われる「翁」
が、その元神であり、本家とも言える鹿島神宮最大の祭典・御船祭に奉納
現在、12年に一度執り行われている鹿島神宮の御船祭は、今から凡そ千七百年ほど前と推定される応神天皇の御代に祭典化されたと伝えられています。
それほど古く、また規模においても「我が朝第一の祭礼」と喧伝され、当神宮最大の祭典でした。この規模の大きさの故に、戦国の世と相俟って、「船流すわざ」としての御船祭は室町時代初期の正平九(1354)年頃で途絶えたようです。そして明治三年に再興されるまでは、境内楼門前にお舟木三艘を供えて、一同が鬨の声をあげて凱歌を宣(の)るのみの簡素な祭礼が行われていました。
現在の御船祭を簡略に説明すると、九月一日午前、勅使参向のもとに式年大祭が厳かに斎行され、夕刻より神霊は行宮にお渡りになります。翌早朝、神霊に二千名が供奉して約2キロ隔てる北浦湖岸の大船津に到着。龍頭を飾りつけた「御座船」に神輿を安んじ、供奉九十余隻を従えて北浦より佐原まで約11キロ、水上を渡って香取神宮のお迎えを受けます。まさに典雅な祭礼の極まる場面です。再び帰路につき、行宮着輿。三日午後、行宮から本殿へと還幸。三日間にわたる神人共に睦び合う大祭礼がここに終幕を迎えます。
この御船祭はその祭礼のかたちからも窺えるように、鹿島と香取両神宮の御鎮座の由緒と、御祭神を奉ずる人々の関東開拓の足跡を伝えるものであります。同時に十二年に一度の午年斎行という午年の持つ一陽来復の意味に思いをいたし、鹿島神宮ではこの大祭を皇室の祢栄と国の隆昌を願う「鹿島立ち」の節目の神事と捉えています。
大鳥居が3・11の大地震で崩落して無くなってます。
楼門の扁額を見上げる。
東郷平八郎の書いた鹿島神宮の書が掲げられている。バルチック艦隊を破った日露時代の海軍大将、あの作戦参謀真之の上官だ。坂の上の雲、そして明治、こんなところにもその名残があった。