2011年 09月 13日
根津神社
根津駅(千代田線)から徒歩8分
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駕籠町(千石一丁目)からは都バス(早稲田行き)に乗り、根津一丁目(根津神社前)で下車
文京区根津3-30-1
日本武尊が千駄木の地に創建したと伝えられる。
現在地は江戸時代、甲府宰相、松平綱重の山手屋敷跡であり東都の鬼門に鎮座する。
後に六代将軍となる徳川家宣の誕生地だった。五代将軍徳川綱吉は家宣び産土神として宝永三年(1705)に千駄木にあった社をこの地に移して社500石を附し、天下普請と言われる権化造の社殿を大造営造営した。
【上写真 表参道】
勇武の神としては、広く厄災壌抜幸運招来の信仰を集め、縁結び、学問の神としても有名である。昭和六年国宝に指定。明治維新後は、明治天皇御東幸にあたり勅使を遣わされ、国家安泰の御祈願を修められた。祭神は須佐之男命、大山昨命、誉田別命、大国主命、菅原道真公
境内には、「家宣の胞衣塚」(区指定民族文化財)
楼門
表参道から拝殿前にある壮大な楼門。
正面には左右に像が祭られ、右側の像は水戸光圀がモデル左側は徳川綱吉?と言われている。
各像の前には、野鳥よけの金網とガラスで守られているので写真撮影には不適です。
つつじ山から楼門を望むと、全体が一望できなかなか美しい。
唐門
拝殿前に唐門を配し、その左右を透かし塀で社殿を伽藍でいる。唐門前方の楼門を含め、権現造り神社建設洋式の旧規を示す物としてすべて国定重要文化財である。
社殿
社殿は拝殿・本殿と両者を接続する幣殿(相の間)からなり、しかも一つの屋根でまとめ、権現造の完成させた姿を見せている。
多くの震災、戦災を免れ現在残るのは権現造りの社殿・唐門・楼門・透塀等
境内の庭園
もとは徳川綱重の下屋敷跡で、庭園内には非公開の六代将軍家宣公の産湯井戸がある。
駒込稲荷神社
根津神社境内にある末社の1つ。
かつての徳川綱重公の邸内社である。
乙女稲荷神社
つつじ苑の一角ににある末社。
奉納された鳥居でつながった参道を通ると舞台から本殿の伽藍を一望できます。
つつじ園の前にある明治の文豪 森鴎外(陸軍軍医官 少将 森林太郎)が明治37年に奉納した日露戦争戦利砲弾を飾るための台座跡、「戦利砲弾奉納 陸軍軍医監森林太郎 明治三十九年」
現在は水飲み台として使用されている。
親子榎
塞の大神碑
この塞の大神碑は通称駒込の追分(旧中山道と旧岩槻街道の分岐点)にあった。
明治6年に建立、明治43年道路拡張により根津神社に移築された。
庚申塚
江戸時代街道の辻に、建てられていた6基の庚申塚が、明治以降のの道路拡張により取り除かれ根津神社に奉納されたもの。なお、もっとも古いのは寛永9年のもの。
徳川綱重(とくがわつなしげ)
[ 日本大百科全書(小学館) ] .
(1644―1678)
江戸前期、3代将軍家光(いえみつ)の第3子。6代将軍家宣(いえのぶ)の父。母は側室藤枝(ふじえだ)氏お夏。幼時から家光の姉天樹院(千姫(せんひめ))に引き取られ養育された。家光病没直前の1651年(慶安4)4月、甲斐(かい)(山梨県)などで15万石が与えられ、江戸・桜田の屋敷に住した。61年(寛文1)には10万石の加増を受け、つごう25万石を領するに至った。官位も従四位(じゅしい)下、左馬頭(さまのかみ)、左近衛権中将(さこんえごんのちゅうじょう)から、正三位(しょうさんみ)、参議に進んだ。このような将軍家連枝(れんし)としての扱いは2歳下の弟綱吉(つなよし)と同格であり、御三家に准ずるものであった。兄4代将軍家綱(いえつな)には世嗣(せいし)がなく、綱重を擁立して将軍家の相続者としようとする運動があり、これに失敗して綱重は自殺した、とする説もあるが、事実とは思えない。
[ 執筆者:林 亮勝 ]