維新の会、遺産全額徴収も検討 「国家元首は天皇」明記

維新の会、遺産全額徴収も検討 「国家元首は天皇」明記

 橋下徹大阪市長率いる大阪維新の会が事実上の次期衆院選公約「維新八策」で掲げる相続税強化策に関し、不動産を含む遺産の全額徴収を検討していることが9日分かった。資産を残さない「一生涯使い切り型人生モデル」を提唱、消費を促す税制に転換し、経済活性化を図る狙い。ただ内部に異論もあり、協議を継続する考えだ。 国家元首は天皇と明示することも判明。同会は10日、大阪市で開く全体会議で協議した上で、八策の概要を公表する方針だ。現段階で数値目標はほとんど打ち出していないほか、実現可能性が疑われる項目もあり、24日開講の政治塾でも精査を続ける。2012/03/10 01:29 【共同通信】


こんなもんは日本は奈良時代に終わった話だろ!
国に土地が没収されるならだれも真剣に畑なんか耕さないんだよ! 維新の会って大化の改新みたいだね?


大化の改新ー645年6月12日、この日は朝鮮半島の3国(高句麗、新羅、百済)の使者が来日し
皇極天皇に謁見する日であった。飛鳥板蓋宮(あすかいたぶきのみや)の
大極殿(だいごくでん、天皇が政治を執り行う建物)で、
使者の書を読み上げる役は蘇我石川麻呂である。この朗読の最中、事件は起こった。
列席の蘇我入鹿に中大兄皇子らが斬りかかり殺害。同時に中臣鎌足は軍勢を指揮し
甘橿丘の邸宅にいた入鹿の父・蝦夷の動きを封じた。これが大化の改新である。
翌13日、既に趨勢は決したと観念して蝦夷は自害、蘇我氏の邸宅には火が放たれた。
クーデターは成功を収めたのである。さらに14日、皇極天皇は退位し上皇になり新政府が発足。
天皇の位には皇極天皇の弟・孝徳天皇が即位、皇太子に中大兄皇子が就く。
新たに設置された役職である内臣(うちつおみ、ないしんとも)に中臣鎌足、
左大臣に阿倍内麻呂(あべのうちまろ)、右大臣に蘇我石川麻呂、
政治顧問である国博士(くにのはかせ)に遣隋使として留学した旻と高向玄理が就任した。
そして19日、中国の制度に倣い元号を制定、大化(たいか)とする。
新体制の確立はさらに続く。8月、東国に国司(こくし)を任命した。
国司とは地方行政長官のようなもので、各国を治めるために地方へ派遣された役人である。
9月には古人大兄皇子を討ち、蘇我氏所縁の者は完全に排除された。
もはや飛鳥宮に政争の火種は無くなり、この年の暮れ
政治刷新のために都は難波長柄豊碕宮(なにわながらとよさきのみや)へ移された



難波長柄豊崎宮


難波長柄豊碕(埼)宮(なにわながらのとよさきのみや)は、飛鳥時代の宮殿である。日本初の本格的な首都の宮殿建築とされる。学術的には、この宮跡に建てられた難波宮(後期難波宮)と区別して前期難波宮とも呼ばれる。

乙巳の変(645年)の後、中大兄皇子らによって企画され、652年に完成し、孝徳天皇が遷都した。建物は、朱鳥元年(686年)の正月に全焼するまで、現在の大阪市中央区に34年の間存続した。

白雉5年(654年)孝徳帝の没後、斉明天皇(皇極天皇が重祚)により飛鳥板蓋宮に遷宮された。その後は、天平16年(744年)になって同じ場所に聖武天皇によって宮殿が築かれた(「後期難波宮」 難波京参照)。

この宮は、上町台地の上にあり、大正2年(1913年)に陸軍の倉庫建築中に数個の重圏文・蓮華文の瓦が発見されている。昭和28年(1953年)、同地付近から鴟尾(しび)が発見されたのがきっかけで、難波宮址顕彰会の発掘・調査が進んだ。

内裏・朝堂院の構造がそれまで見られなかった大規模で画期的な物であったことから、大化の改新という改革の中心として計画的に造営された宮であるとされ、大化の改新虚構論への有力な反証となっている。

現在、難波宮の跡地の一部は、難波宮史跡公園となり、大阪城の南に整備されている。前期・後期の遺跡を元に建物の基壇などが設置されている




前期難波宮 [編集]

前期難波宮模型
朝堂院の北に内裏が隣接する
乙巳の変ののち、645年に孝徳天皇は難波に遷都し(難波長柄豊崎宮)、宮殿は652年に完成した。大化の改新とよばれる革新政治はこの宮でおこなわれたが、この宮は建物がすべて掘立柱建物から成り、草葺屋根であった。『日本書紀』には「その宮殿の状、殫(ことごとくに)諭(い)ふべからず」と記されており、ことばでは言い尽くせないほどの偉容をほこる宮殿であった。

孝徳天皇を残し飛鳥(現在の奈良県)に戻っていた皇祖母尊(皇極天皇)は、天皇が没した後、655年1月に飛鳥板蓋宮で再び即位(重祚)し斉明天皇となった。

683年(天武12年)には天武天皇が複都制の詔により、飛鳥とともに難波を都としたが、686年(朱鳥元)正月に難波の宮室が全焼してしまった。
建築物の概要
回廊と門で守られた北側の区画は東西185メートル、南北200メートル以上の天皇の住む内裏。その南に当時としては最大級の東西約36メール・南北約19メートルの前殿、ひとまわり小さな後殿が廊下で結ばれている。前殿が正殿である。内裏南門の左右に八角形の楼閣状の建物が見つかった。これは、難波宮の荘厳さを示す建物である。

宮殿の中軸線上に三つの門が発見されている。北から内裏の南門、次に朝堂院の南門、宮城の南面中央の門(朱雀門)。内裏南門は東西32.7メートル、南北12.2メートル。日本の歴代宮殿の中でも最大級の規模である。この門は、木製基壇の上に立っている。木製基壇の上に立つ建物は、内裏前殿や八角殿等の中枢部の建物に限られている。朝堂院南門や南面中央門(朱雀門)の平面規模は東西が23.5メートル、南北は8.8メートル。柱は直径約60~80センチという太い柱が使われていた。

天皇の住まい(内裏)と、政治・儀式の場(朝堂院)をはっきりと分離した構造は、前期難波宮が最初であり、後の宮(藤原・平城・平安宮など)にも採用された。朝堂院の広さは南北262.8メートル、東西233.6メートルである。その中に東西に7棟ずつ、左右対称に14の朝堂が並んでいる。北から東西とも第一堂、第二堂と順に名付ける。第一堂は南北(桁裄)16.1メートル、東西(梁間)7.9メートルで、第二堂は南北20.5メートル、東西7.0メートルであり、木製基壇の上に立つ。第三・四・五堂と第七堂(南北に並ぶ東西棟二棟の内の南側)は桁裄35.0メートル、梁間5.8メートルである。このように朝堂院の規模が違うのは、着座する人たちの位によって朝堂に格式に差があったことが分かる。14の朝堂が見つかっている。後の宮では12である。

これらの内裏と朝堂院の外側(まわり)に役所(官衙)が存在した。

後期難波宮 [編集]

後期難波宮模型(大阪歴史博物館)
奈良時代の神亀3年(726年)に聖武天皇が藤原宇合を知造難波宮事に任命して難波京の造営に着手させ、平城京の副都とした。中国の技法である礎石建、瓦葺屋根[1]の宮殿が造られた。天平15年(744年)に遷都され、このとき難波京も成立していたと考えられている。翌天平16年1月1日、難波宮から紫香楽宮へ遷都した。

784年、桓武天皇により長岡京に遷都された際、大極殿などの建物が長岡京に移築された。

史跡難波宮跡 [編集]
難波宮跡公園より北西方面を望む
現在、難波宮の跡地の一部は、難波宮史跡公園となり、大坂城の南西に整備されている。

難波宮の遺跡は現在の馬場町・法円坂・大手前四丁目付辺に及んでおり、大阪歴史博物館やNHK大阪放送会館のある一角も難波宮の跡である。大阪歴史博物館の地下1階では、地下遺跡の様子を見学することができる。 同博物館前にある茅葺きの高床倉庫は、法円坂遺跡で見つかった5世紀(古墳時代)の巨大高床倉庫群のうち1棟を復元したもの。難波宮以前から重要な交通拠点となっていた難波津の遺構である。

難波宮史跡公園の場所は、1871年(明治4年)以降に兵部省(のち陸軍省)の管轄地となり、1945年(昭和20年)の敗戦時には歩兵第8連隊が置かれていた。占領軍の接収解除後すぐに鴟尾が発見されたこともあり、開発の手から免れ広大な敷地の確保が可能となった。

2006年(平成18年)には、万葉仮名で書かれたものとしては、最古とされる7世紀中ごろの木簡が出土している。木簡は長さ18.5センチ、幅2.7センチで、片面に墨で「皮留久佐乃皮斯米之刀斯」と書かれており、「はるくさ(春草)のはじめのとし」と読むとみられている。一緒に出土した土器や地層の状況から前期・難波宮の完成前後のものと考えられ、万葉仮名は天武・持統朝(672年-697年)に成立したと考える説に再考を促す発見であった。

難波宮跡公園の北側を東西に通る阪神高速道路東大阪線は、ほぼ全線が高架構造にもかかわらず、難波宮跡付近の部分だけ平面となっている。これは、建設に先立つ事前協議の結果、難波宮跡の遺構の保存と難波宮跡公園から大坂城跡への景観を確保するために「平面案」が採用されたためである。しかし、この突如として現れる急な勾配区間のために、事故や渋滞の原因となることも多い。なお、平面部分の道路の基礎は、難波宮跡中心部の遺構を破壊しないよう、地下に杭を打ち込まないような特殊な構造となっている

by momotaro-sakura | 2012-09-09 07:59