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妻の母との出会い    

妻の母との出会いは今から数えると39年前ほどにさかのぼる。
その頃私も20歳になったばかりのころでした。
大学も春休みに入り授業料稼ぎに最初私の近くの裏山前のたんぼの農業用の用水堀の土方作業をしました。
ひとこま12メートルで700円でした。
私の家は農家ではなかったが多少の畑を作っていたので(つちいじくり)は慣れていました。
ところがこの農業用の用水堀は私にとって今迄に最大な労働力でした。
まず第一に汗水が滝のように流れ出る、第二に足腰はガタガタになる、第三に喉が渇くし腹が減る。
穴堀ほど過酷な仕事はない

私にとって今迄の最大な労働力はこの仕事であった。
この仕事が出来ればどんな仕事でも出来ると自信と確信を持ちました。
この土方も一ヵ月の約束であったので辞めたが、この一ヵ月の労働で自分自身に何事もやれば出来るものだという確信を起こさせた。
でもかなりな過酷な労働であったことは確かだ。
次のアルバイトは友達がそのバイトを私より先にしていたのでやらないかとの誘いであった。
それは何とセールスのしごとでした。
私は口下手で内気な性格でしたので最初は遠慮をしていました。
しかしこのバイトが私の人生を変えさせました。そのバイトとは・・

そのバイトとはフランスベットのセールスでした。
なんせ若造がこんな成人向きの製品を売るのですから売れるわけが無い。
結局友人知人のセールスの域を越えられないのが現状だ。
やはりセールスは友人知人以外に知らない人に販売できる力がないとプロにはなれないと悟った。

この間の週一の塾はやすみなくつづけていました。
新学期になると勧誘用のガリを刷って各家庭に配りました。
この頃の授業料は300円でした。
当時130ー140人位の生徒はいました。
この仕事は4年間殆ど休みなく続けた。
学生時代の4年間、日曜日はネバーオンサンデーでした

後の55年のマルタカ学園創設は学生時代の経験からでした。
いまは子供の少子化のため辞めました。
現在は旧下館市内の泉町にもって行き、つくば学園都市が本社の「バーナード英会話教室」に賃貸しております。
英国系英会話ですので結構人気があるようです。
学園の周辺には十数ヶ所あるようです。

話は飛びましたので前に戻します。
フランスベットのバイトの間に旧下館市内の越川ダンス教室通いました。
いまから39年前の話です。
これからの時代はダンスぐらいは覚えておかないと笑われると思ってね?
お陰さまで大学時代のダンパンにはひっぱりだこでした。
ヒルトン時代の社員パーテイにも活用できました。

しかしこのダンスが切っ掛けでいまの妻とめぐりあったわけです。
妻の方が先に習っていたのでこちらは教えて貰ってる状態でした。
妻の足を踏み踏み汗をかきかき教えてもらいました。
今でもいい思い出になってます。
これを切っ掛けにお付き合いすることになったが何時までも平穏な時はありません。

妻の方に縁談の話が出てきたのでした。
さて私は学生の身でありながら妻の母に談判にいきました。
妻の母は私の結婚の申し込みを一つ返事で受けてくれました。
この時の思いは生涯忘れません。
人間一つ一つ思いが叶っていくと野心が芽生えて来る。
この野心とは妻の母の一言が私の人生を決めたといっても過言ではなかった。

そのことばとは(金持ちになってね)の一言でした。
私は母も亡くなった父も公務員でした。
公務員の世界では昔は金持ちとは縁が遠い話でした。
安定はしているが何故かインパクトのない味気のない妙なブライドだけがつきまとった世界でした。
この言葉は私の胸にズッシンと突き刺さりました。

妻の母の言葉の(金持ちの世界)をもとめてこの年にまでなってしまった。
私の人生は七転び八起きそのものであった。
仕事の業種をいくつやったか判らないほどでした。
人生甘いも辛いも知り尽くしているようになった。
しかし自由奔放に生きた私には悔いがないが、その分妻や子供そしてここ中央病院のベットでガンと闘っている妻の母には迷惑をかけたものだった。

いま病床に伏せている妻の母のすがたをみてると、今迄に大変心配や迷惑をかけたことを謝罪する気持ちで一杯です。
今妻の母も病院でガンと闘っているが、かなり発見が遅いので時間の問題となってるようだ。
今は医学も進歩しているので内視鏡の施しで、余命を引き延ばしているようである。
なるべく苦しまないような方法を、ここ病院のお医者さんはとってるようです。
頼みの綱はお医者さんしかありません。
よろしくお願いします。
by momotaro-sakura | 2005-11-22 05:50