雨引千勝神社・大同2年ー西暦807年に何が起ったか?         

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◎大同2年ー西暦807年に何が起ったか?

「参考文献」
<日本を変えた大同二年の謎>第1部
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 那須連峰の茶臼岳旧火山の噴火は大同二年とある。尾瀬ケ原の燵ガ岳の噴火も大同二年で、蔵王刈田岳の噴火も同じ年である。会津磐梯山の噴火は大同元年だが、その噴火を鎮めるために、大同二年に山麓に恵月守が建てられたといわれる。日光の男体山で旱魃を静めるために勝道上人が祈祷したのも大同二年となっている。しかし、話はこれだけではない。
 茨城県の雨引千勝神社は大同二年創建となっている。早池峰神社、赤城神社なども同様である。また福島県いわき市の湯の嶽観音も、大同二年3月21日に開基されたとある。清水寺、長谷寺などの寺院まで同じなのである。香川県の善通寺をはじめとする四国遍路八十八ヵ所の1割以上が大同二年である。各地の小さい神社仏閣にいたるまで枚挙にいとまがないほど、大同二年及び大同年間はそれらの創建にかかわる年号である。富士宮市富士浅間大社も、大鳥居の前に堂々と大同元年縁起が記載されている。

 さらに、神楽の起源も大同二年作と伝えられているが、それだけではない。「秋田風土記」が語る阿仁銀山の開坑も大同二年で、高根金山、吹屋銀山をはじめとする各地の鉱山の開坑も、大同年間や大同二年に語り継ぐものが非常に多い。兵庫県・生野銀山の正式記録は「天文十一年(1542)開坑」となっているが、伝承では大同二年である。
 おまけに八溝山や森吉山などの鬼退治までが大同二年という始末である。加えて、肘折温泉に伝わる「温泉之縁起」史料の中に、大同二年あるいは大同年間に温泉が開かれたという記述があるように、温泉にまつわる大同二年もまた多い。このように、大同年間に関係が深い伝承の多さに驚かされてしまう。

 大同二年は西暦でいうと807年で、平安時代の初期である。大同という年号は806年から809年の4年間しかない。もしかすると大同年間は天変地異の多い年ではなかったのかという疑問が湧くが、実はこれらの山が噴火したり、旱魃がひどかったという証拠は全くといっていいほど見つかっていない。では、単なる伝説なのだろうか。仙台地方には「秋風や大同二年の跡を見ん」という俳句まである。
 しかし、証言がこれだけ揃いも揃って、大同二年もしくは大同年間に集中するのはどう考えても妙である。まさか、大同年間というキーワードが、全国において「むかしむかし、・・・」と同義語という訳でもあるまい。そこで「では、大同二年とは一体何なんだ」という事になる。実際この数年間に何かがあった、あるいは起こったことは確かである。ただの伝説だというならそれもいいが、では大同年間にこのような伝承をばら蒔いて歩いた犯人は一体誰なのだろうか。

 そもそも、大同年間とは平城天皇の世である。種継暗殺事件で皇太子を廃された叔父早良親王に代わって立太子した経緯から、早良親王の祟りだといわれる病弱な平城天皇は、全国の寺社に自ら健康祈願を命じた。しかし、それだけでは寺社の草創はともかくとしても、各山々の噴火や鉱山の開坑など、いたるところの伝説とは結びつきにくい。
 少なくとも、大同年間とは維新や改革より、革命とでも呼ぶべき節目ではなかったかと思われる。実は、もちろんのことなのだが、火山の噴火はともかくとして、大同年間を伝えるからにはそれらに係わる人物の名前も伝えられてはいる。なんだ、それでは謎でもなんでもないではないかと言うかもしれないが、果たしてそうなのだろうか。まあその理由は後回しにして、まず伝えられるその人物、いや人物たちの名前を次に挙げよう。

 実は、弘法大師空海と坂上田村麻呂の2人が群を抜いて多い。田村麻呂の蝦夷征伐が戦果を収めて終了した2年後の年が大同二年である。一方真言密教を日本に伝えて、後に弘法大師の諡号を授かる空海が、唐から帰国したのが大同元年なのである。そこで、この大同年間が伝承上では「坂上田村麻呂」対「弘法大師空海」の対決の場になる。
 しかし、東日本で圧倒的な力を示す田村麻呂だが、さすがに西日本ではかなり少ない。それにひきかえ、西日本の代表格が空海であるのと同時に、空海伝説は東北日本にも圧倒的な勢いで越境していくのである。では、この二人をもう少し詳しく見ていこう。

 奈良・平安時代の東北は蝦夷の地と呼ばれ、その地に住んでいた荒ぶる蝦夷を平定したのが征夷大将軍坂上田村麻呂である。胆沢城を築き大和朝廷の判図を拡大した。ちなみに、大和朝廷と戦った蝦夷の伝説は数多いが、その殆どは鬼あるいは、悪として封じ込められている。蝦夷は偶像もなく記録を持たなかったために、みずからの意思を歴史に残せなかったのである。
 当時、北関東から東北にかけての地域で多くの神社が作られている。蝦夷遠征の戦勝祈願のために田村麻呂が神社を寄進した記憶を留めた歴史上の話であろう。ただ、常陸の鹿島神宮も下総の香取神宮も土地の神様ではなく、ともに武力の神である。また、四国讃岐にも田村神という田村麻呂を祀る田村神社もある。

 おそらくこれらは、時の大和朝廷が東北のみならず四国など、神社を通じて全国に展開した勢力拡大政策であり、力のシンボルがこれらの神社であった。現に、平城天皇は大同元年から二年にかけて全国に観察使を派遣し、地方政治の実状を調査させたと記録にある。病弱とはいえ、官司の統廃合を行い緊縮財政に努め、譲位後も再び平城への遷都を強行しようとした天皇なのである。
 冒頭で述べた阿仁銀山の開坑のも、実は田村麻呂となっているのだが、これは武将としての行動範囲を超えている。ではなぜ、東北の大同二年の鉱山伝承までが、田村麻呂と結びつくのだろうか。それは、蝦夷征伐による東北地方での勇名に加えて、真言密教の影響下で京都に清水寺を創建したことである。さらに大同二年、奥州高丸という賊の平定後、田村麻呂は前田村壱町木という所に堂宇を建立し本尊十一面観音(行基菩薩作)を安置したことが大きい。実はこれらのことが今回のテーマ、大同二年の謎を解くひとつの鍵になるのである。

<日本を変えた大同二年の謎>第2部
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 平安時代のはじめ、最澄と空海という高僧があらわれて、それぞれ天台宗と真言宗を開いたことは仏教史の上だけでなく、古代思想史上でも大きな分岐点となる。二人は中国に渡って日本に密教を伝え、比叡山、高野山を開いて山岳仏教を提唱すると、日本の仏教は密教的色彩に塗り替えられていくことになる。ただし、最澄の天台教学にとって、密教はあくまで大系を構成するひとつの部門に過ぎなかった。これに対し、空海は密教こそが全てとした。今日でも「密教は真言宗と、最澄の天台宗の一部」だと言われるように、密教修行で最澄は空海に遠く及ばない。
 入唐して短期間に梵語やインド仏教を学んだ空海は、果たして青龍寺の恵果和尚から密教を学ぶことになる。「大日経」の善無畏派と「金剛経」の金剛智派の2派に分かれていた密教を統一したのが恵果であり、中国における唯一正統な密教の後継者だった。恵果は1,000人余りもいた弟子の中から、異国の僧、空海の卓越した才能を見抜き、密教世界の最高位とも言える阿闍梨の位を授け、真言密教第8世法王に任命した。また、空海は恵果より大日如来の密号「遍照金剛」の名前を授かったが、四国八十八札所の巡礼を遍路と呼ぶのはこのためである。

 恵果は密教の奥旨の全てを伝授して、空海に密教の法具、経典、曼陀羅、法衣などを用意した。そして日本に早く帰って密教を広めることを願いつつ、805年12月60歳で亡くなった。それは空海と出会ってからわずか半年余りのことである。国に義務付けられた二十年の留学期間を大幅に繰り上げ、空海は唐に来ていた次の遣唐使船で帰国した。
 これから後の838年から、わが国の円行・常暁・円仁・円載・恵運らもこの時に入唐求法して密教を求めている。しかし、中国では845年の武宗の法難により仏教は衰えてしまう。その後玄法寺法全等により再び密教を盛り上げるが、優れた継承者もなく仏教界全般の衰退とともに中国密教もまたその勢力を失っていった。

 さて、空海が日本に持ち帰った密教の法具、経文、仏像などは膨大なものだった。この「御請来目録」を携えた空海は、嵯峨天皇の招きで大同四年に京の都に入る。この目録の中には「十一面自在観音」三体が含まれ、密教の導入とともに十一面観音は密教の変化像として世に広まっていく。ここでようやく、田村麻呂が奉納した十一面観音が結びついてくるのである。
 空海と田村麻呂の名前が出たところで、後回しにしていた疑問を考えていきたい。つまり犯人の名前が判っても、謎は残るという話である。例えば、大同三年弘法大師の勧めにより、田村麻呂が草創したと伝えられる恵隆寺が福島県にある。確かに、田村麻呂は大同元年の前年より、征夷中止を受けて都に留まっていた。だが、一方の空海は唐より帰国後大同四年まで、九州大宰府に滞在していたことになっていて、二人をつなぐ接点はない。

 大同元年10月に帰国した空海だったが、20年の留学予定だったにも関わらず2年で帰国したため、入京の許しが出なかった。勅命によって筑紫観世音寺に止めおかれたとか、伝説は多くあるがいずれも信ずべき資料はない。九州の太宰府からの足取りがしばらく不明で、空海が実際何をしていたのかはわからない。ただ、大同二年2月11日に、太宰府の時間某の亡母の供養ための法会を行い、その願文を起草しているので、この頃はまだ太宰府に滞在していたことは明らかである。いずれにしても、在唐中に求めた膨大な荷物を保管できる場所は限られてくるので、太宰府か観世音寺のどちらかであろう。
 実は、冒頭に出た会津磐梯山の恵月守も、伝承では弘法大師空海が建てたといわれるが、実際には徳一大師が建立したことが歴史上は明らかなのである。この徳一は後年、真言密教を国家の仏教にと目論む空海の協力要請をきっかけに、最澄や空海といわゆる「三一権実論争」を行った有名な僧でもある。その恵日寺は最盛期に僧兵数千を誇ったが、源平合戦のおりに平家方について挙兵したが敗れ、衰運を招くことになる。

 もう、お気付きであろう。このように、様々な大同年間伝承にもかかわらず、史実では空海も田村麻呂もそれぞれの現場にはいなかったのである。これは一体どうしたことだろうか。要するに、大同年間伝承をばら蒔いて歩いた犯人は別にいるということになる。さらに言えば、それぞれの地の歴史的事実をも、大同二年伝承に塗り替えていった犯人がいるということである。それこそが、我々が探す真犯人なのである。そして、それが伝承である限り必ずしも、大同年間に行われたとは限らないことを忘れてはならない。

 ここまで当時の状況を見てきたが、問題はなぜ大同二年や大同年間でなくてはならないかである。時代を超えてまで、歴史的事実を大同二年伝承に塗り替えていく必要があったのか。その答えは、空海の遺言といわれる「弘法大師御遺告」の中にある。密教を携えて中国から日本に帰国しようとする空海は「少僧、大同二年をもって我が本国に帰る」と記載している。
 実際の空海の帰国は大同元年であり、ましてや帰国して間もない空海の教えは「新しい仏教」でしかなかった。それが南都六宗を凌ぐ勢いを持つのは、平城天皇の次の嵯峨天皇の庇護を受けてからである。しかし、真言宗ではこの大同二年が立教開示の年にあてられているのである。田村麻呂の十一面観音で分かるように、すべての大同二年ないし大同年間の伝承は、この真言宗の立教開示を標榜したものだ。つまり、この瞬間に時空を超えた大きな変動が日本におこる。これが、全国に広がる大同二年伝承の正体である。

<日本を変えた大同二年の謎>第3部
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 ここで、真犯人を特定する前に、基本的には神を信じてきた日本がなぜ、これほど劇的に仏教である密教を受け入れたのかを考えておこう。仏教は6世紀ごろ日本に伝わる。斑鳩宮を造営した聖徳太子は、政治の基調に仏教を採用し、文化の向上と仏教の興隆を目指した。その当時既に、日本の神道は中国の儒教や道教との思想の融合が図られている。これに対して仏教側は、仏陀を宇宙の根源精神と一体化した覚者と定義して、儒経、道経、神道の連合軍である神と仏教の仏との優劣論争に終始して、歩みよりはみられなかった。
 奈良時代、壮大な国家事業として完成された聖武天皇による大仏建立は、この地上に天皇を中心とする仏国土を築き上げようとする意思の表明である。これは華厳経の思想に基づくもので、勅使として伊勢神宮に遣わされた76歳の高僧行基は天照大神の御託宣だと称した。これが、神仏習合の走りとなる。僧はすべて国家によって認められた官僧で、南都六宗といわれた奈良の寺々はそのための研究機関であった。

 神仏習合の過程で最も重要な役割を果たすのが、実は密教である。密教は曼荼羅に象徴されるように、仏菩薩に限らず天、明王などあらゆる神々を大日如来のもとに見事に統一するという総合主義を特徴としていた。こうした密教の汎神論的な理論が神仏の融合を生み、飛鳥以来の論争に終止符を打つ。つまり、神仏習合理論としての本地垂迹説を形作っていくのである。
 ちなみに、本来の本地垂迹説とは永遠不滅、絶対的理想の仏陀を本地仏と考え、生身の人間である仏陀を垂迹仏ととらえるものである。ところが、日本の神仏習合理論としての本地垂迹説は、この本地と垂迹の関係を日本の神と仏の関係に置き換えたものだ。すなわち、絶対的理想的存在としての仏が、現実世界に神の姿を借りて化現すると考えたのである。平安時代に密教が隆盛となってからは、この考え方に他宗教も同調していくのである。

 では、いよいよ大同二年伝承の真犯人探しに入っていこう。これまで見てきたように大同二年および大同年間の伝承は、空海や田村麻呂の名前が出るものの、明らかに事実と異なることが多い。また、その圧倒的な数は到底一人や二人の力で為せるものではない。これだけ全国の各種、各様の話が大同年間を標榜しながら伝えられるためには、そこに同じ意思を持った一団というか、何らかのグループが存在したとしか考えられない。
 これらの伝承のすべてが、宗教的な性格を帯びている。これは、これまでの話や空海自身の名前が出てくることから、空海の弟子か信者、もしくは密教の影響を受けた人々ということになる。さらに、伝承は山にも深く関わっていて、おまけに鉱山を見立てる技術まで持っている。実は、縄文時代から既に山は狩猟だけでなく、鉱石採掘の場でもあった。そんな山に定住している人たちの中から、後に金属採掘者や精錬を行う者が現れる。これを産鉄民という。

 ならば、この産鉄民が真犯人か、広い意味ではそうかもしれない。しかし純然たる産鉄民は違う。鉱脈を堀尽くせば移動はするものの、それまでは火を絶やさぬように、何日も昼夜を通してふいごを踏み続ける。そのために片足や片目が不自由になる者が多かった。彼らに伝承をばら蒔いていく余裕はない。狩猟民だけでなく、産鉄民のタタラ師と呼ばれる金属加工者とも関わりを持ち、その金属文化を取り込んでいった人たちがいるのだ。それは誰か、山伏である。
 では、山伏とは何者か。山岳で修行することによって超自然的な力を体得し、その力を用いて呪術宗教的な活動を行う宗教者で、山に伏して修行することから山伏といわれた。また験を修めた者という意味で修験者、一宗一派によらず諸山を歴訪することから客僧ともいわれる。そして、実践的な儀礼中心の宗教を修験道という。道教やシャーマニズムなどの影響をもとに、空海や最澄の密教を取り入れて理論武装を行い発達し、平安時代末に至っては一つの宗教体系をつくりあげていく。

 日本の山文化を語るうえで一番大きな役割を演じる、組織化された山岳の修験者達こそが、大同二年もしくは大同年間伝承をばら蒔いた真犯人にほかならない。田村麻呂が大同二年伝承に関わるのは、実はその蝦夷討伐のあと、仏教を布教する一団がいたということである。そして、東国に千手、十一面観音の観音信仰と鉱山神の虚空蔵菩薩、妙見尊信仰等を広めていく。その僧たちこそが、布教師であり修験者であった。山の名前によく大日山とあるのは、山中に大日如来を祀った山だからである。

 しかし、いくら修験者たちが神社の創建や仏閣の開基を大同二年に決めたところで、伝承していくのは一般大衆である。もしもこれを拒んでいたら、大同伝承はここまで伝わることはなかったはずである。しかし、実のところは当時、一般大衆にとっては神も仏も同一だと考えられていたのである。村の鎮守の祭神である氏神様が、いつのまにかお稲荷様になろうと、八幡様が八幡大菩薩様に変わろうと、京都の愛宕神社の祭神が地蔵菩薩であろうと、所詮氏神様に代わりはなかった。
 疫病神の侵人を防いでくれさえすればよく、村の五穀豊饒を祈り、無病息災を願うだけである。寺に神を祭祀しようと、神社に仏をまつろうと別に違和感はなく、お祭りや盆踊りの憩いの場所にもなっていく。おまけに明王様などは神なのか、仏なのか区別も難しい。面倒な拝み方よりも信念が大事とばかりに、百万遍念仏供養だと言って「ナンマイダ ナンマイダ」と気ままに唱えながら、大きな数珠を繰るのである。

 よく日本仏教の庶民化は、鎌倉以後の法然や親鸞、日蓮をはじめとする新仏教が担ってきたと言われるが、実はそれ以前から日本仏教の基層には修験道的なものが脈々と流れていたのである。豊かな大自然に育まれてきた日本人の有り様は、ある意味では修験道的な宗教観にも通じていた。山や火、水、風等、人間を取り巻くあらゆるものたちを拝みながら生きていく。我々の祖先はそういった宗教観を生んできたのである。

「参考文献」
大國玉神社
(常陸二十八社の一社、延喜式内社、旧郷社)
御祭神
大國主命 武甕槌命 別雷命
由緒
当神社の創建は詳らかでないが、仁明帝承和四年三月(西暦八三七年)には霊験甚だ大であったために官社に預り、同十二年には従五位下を授けられたことが続日本後記に記されている。更に清和帝貞観三年九月(西暦八六一年)には従五位上に昇叙されたことが三代実録に記されている。また、延喜式神名帳(西暦九二七年)に当社の名が記されている。
慶長年間に徳川幕府から御朱印地二十石を賜る。更に元禄十二年には水戸光圀公より、四神乃旗、日月乃幢が奉納された。
明治六年四月郷社に列格された。
鍬の祭(鍬打祭) 村指定無形民俗文化財
昭和五十四年十一月五日指定
毎年正月三日に当神社で行われている行事で田遊びの神事ともいわれている。このお祭りに使用する翁の古面や牛面は中世の頃の作といわれている。
年頭に氏子崇敬者の家内安全と五穀豊穣を祈願する予祝行事である。
社殿の前庭に榊の小枝を敷き田所となし、古式にしたがって「春鍬打ち」「畦づくり」「水切り流し」「牛口伝」「しばふみ」「田ならし」「種まき」「早苗とり」「お田植え」から「お中食」と農作業の仕ぐさをしながら唱え言をして豊作を祈願する古くから本社に伝わるお祭りである。
さやど廻り祭 村指定無形民俗文化財
昭和五十四年十一月五日指定
毎年正月四日早朝に行われる神事である。
詳しい名称は「大國玉神社末社七十五社御宮渡巡行」と呼ばれるものである。
大国玉地内に祀られて当社の末社を氏子崇敬者の有志が大榊と大太鼓を先頭にして走りながら巡行し、家内安全と五穀豊穣を祈願するお祭りである。
帰社後、甘酒を頂き、「神宝日出五穀豊熟福田之祓」の御神符を受ける。
この行事に参加すると年間無病息災であるといわれている。


「参考文献」
雨引山のいわれ(寺史)

 雨引観音は雨引山楽法寺と申し、用明天皇2年(588年)梁の国人の法輪独守 居士によって開かれた、厄除延命安産子育の霊験あらたかな延命観世音菩薩(国指定重要文化財)を本尊佛として、おまつり申し上げる坂東観音霊場第二十四番 札所の名刹である。

 第三十三代推古天皇御病気とならせられるや、遙かに当山観世音菩薩に病気平癒を祈らせ玉い、ご本復遊ばされたので、当山を勅願のみ寺と定められた。 天平年中(730)第四十五代聖武天皇ならびに、光明皇后は法華経を書写して 当山に奉納しご安産をご祈念あられたところ功験あらたかであったので、当山を 安産祈願の根本道場と定めて勅願寺となされ、三重塔を造建せられた。現在光明 皇后の紺紙金泥の法華経は什宝として保存せられている。嵯峨天皇の弘仁12年 (821)夏、大旱魃が国中を見舞うや、天皇は親ら写経し給い、当山に納めて、 ひたすら降雨を祈らせられた(天皇の御染筆は寺宝として現存) 天皇の御願むなしからず国中は大雨に潤い五穀ために実ったので御感浅からず勅命 によって当山の山号を雨引山と定め勅額をくだし賜った。雨引山楽法寺の山号寺名 はこの勅命によるのである。


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 明治3年(1870)の神仏分離令(大政官布告)は全国寺院の大変革を要求した 律法であり事実それによって消滅した寺院も少くなかったが、当山は第二十七世 聖元、二十八世聖深、二十九世聖衡等の名僧が輩出しこの危期を見事乗り切ることが 出来たのでありこれら諸師の努力により、旧幕時代に勝る「庶民の観音信仰」の 布及定着を計り各地に講社が出来、参詣者が増加したことは、特筆すべきことである。

「一に安産 二に子育よ、三に桜の楽法寺」

と俚謡に詠われているように、安産子育 祈願のみ寺として昭和の御代と共に庶民信仰の中に深く定着したのである。
 ことに近年雨引山楽法寺付近が国定公園地帯に指定され、自動車道が観音堂の真下 まで整備せられるに及んで、東京方面より雨引山楽法寺の四季を楽しむ行楽客が 踵を接して訪れるようになり、加えて境内の一角に「センターあまびき」が開業する 等、雨引山一円は信仰と行楽の地として一躍世の視聴をあつめるに至ったのである。
 春は桜・牡丹・つつじ。初夏萌え出る新緑。さみだれの6月には参道を埋めんばかりの三千株の 「あじさい」。秋は満山の紅葉等、汲めども尽きぬ雪月花のおもむきは雨引山 ならではの景観であります。










by momotaro-sakura | 2007-01-04 15:08

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